自然治癒力とは何か

自然治癒力とは何か

自然の治癒力

本当の施療者は誰か

施療をしていて、気づいたことがあります。それは、施療に来られた方への同情心から、良くなってほしい、良くなってほしい……と、自分の感情を込め過ぎて施療すると、後でとても疲れてしまうことがあるのです。幾度となく、こういう体験をしました(その傾向は、今も、時々あります)。

そのうち、なんとなくわかってきたのは、施療をするのはいったい誰なのか、ということです。

そう言うと、すぐ、何言ってるの、アナタでしょ、って言い返されそうです。確かに、”見た目”はそうなのですが、実は、”本当”の施療者は自分ではないんだと、そんなうふうに、どこらへんからか思い当たるようになりました。

施療するのは、原初の力……

では、誰がしているのかというと、意外に聞こえるかもしれませんが、自分を超えた力、気功でいうところの私たちの故郷、原初の力、なのではないか、と……。

ご依頼人のつらさ、悩み、ご心配を伺って、そのお気持ちに当方が寄り添うとしても、それを受けて、実際に施療を進めるのはそうした力であって、当方はただのパイプ役として、たまたまご縁があって施療の仲立ちをさせてもらっているのにすぎないんだ、と今はそう思って施療に当たるようにしています。

というのも、施療がスムーズに進み、思ってもみないような効果が現われるのは、なかなか表現がむずかしいのですが、そう、一介の参加者として、無心というか、心を透明にして、そうした力にすべてを委ねたほうが、どうも結果がいい、ということをしばしば感じるからです。

無極椿の重要性を力説した馮志強老師

話がちょっと横道にそれるかもしれませんが、陳式混元太極拳の創始者として名高い武術家の馮志強老師は、一時期、廃人寸前まで追い込まれていたのを気功の鍛錬によって急速に健康を回復したと、自らおっしゃり、とりわけ無極椿(姿勢を正して、ただ立つだけの気功法)の重要性を強調されました。

生かじりではありますが、簡単に説明を試みますと、無極とは、一動起こって太極(太一)となる、その元の始源をいいます。そして、太極が陰陽に分かれ、そこから万物が生じるというのが、中国古来の易経の考えです。太極拳の名前の由来は、そこにあるようです。無極椿は、その無極を体現するための最も重要な基本功であり、馮志強老師は、太極拳の鍛錬において、この無極椿を避けては、一歩も前に進むことはできないと、言い切っておられます。

そのように大切な無極椿ですが、では、何をするかというと、ある意味では、とても簡単。いまも言ったように、ただ、立つだけです。でも、やってみると、その大変さがすぐにおわかりになると思います。

ただ立つだけの大変さ

まず、立つためには、さまざまな要求を満たす必要があります。

詳しくは、気功や太極拳の解説書を是非ご覧いただきたいのですが、たとえば、うなじを伸ばして顎を軽く引けた状態にするとか、肘をゆるめて沈ませるとか、胸を内に含むようにして背骨を自然に垂らすとか、下腹をやや後ろに引き、腰をゆるめるとか、臀部を突き出さないようにするとか、膝と足首をゆるめるとか、そうしたことを体のツボである肩井や湧泉、曲池や少海、乳中や夾脊等々を使ってするとか、といったことです。

そうして、姿勢を整え、体を天地と一直線で結び、つなげたうえで、内面を調整し、呼吸を整え、リラックスした状態(気功、太極拳ではファンソンといいます)で気血の運行をスムーズにしていきます。これは、「整体」と呼んでいいでしょう。つまり、(あんまやマッサージに類似した業としての整体という意味ではなく)文字通り、体を整える、という意味での整体です。そうして、この整体を保ちつつ、心を安静にして、無極の無、虚静へと向かわせることが求められるのです。

ところが、この無になるというのが、整体もそうですが、それ以上に難しく感じられます。

心が暴れまわって落ち着かない……

体はじっとして比較的動かないんですが、代わりに心が勝手に動き出します。とりわけ頭の中で湧き起こる言葉や感情の干渉から離れるのが大変です。考えるな、と命じても、すぐに考えはじめます。静まれと命じても、すぐに嫌な思いや不安、怒りなどの感情が顔をのぞかせてきます。

結局これは、人類が進化し、せっせと育て、発達させてきた、思考や言語等をつかさどる大脳新皮質、本能や感情をつかさどる大脳旧皮質が、もっと古い脳幹の、間脳や視床下部といった生命機能の座を抑えつけて、バランスが崩れ、脳全体の調和がとれていない、という現代人特有の課題なのかもしれません。

体をゆるめるだけでなく、脳のこうしたアンバランスを調整し、心を静めていく必要があるといえそうです。正直言って、まだまだ無極椿の深い境地にはとても至っていないのですが、それでも比較的うまくいったときは、体がホカホカし、気持ちよく、心もどこか落ち着き、整っています。

ちょうど、動く気功や太極拳をして、なにかさっぱりとし、気持ちがいいのと似ています。やはり、無極椿や、動きながら無心の境地をめざそうとする気功や太極拳(動禅とも呼ばれる)は、脳のこうした疲れを取り去るのに有効といって、よさそうです。

のみならず、現代人にとって、この気功や太極拳の方法論は、先ほど述べた自分を超えた力、原初の無の力につながるためにも、大切な功法であると思います。なかでも、無極椿の前提として要求される「整体」は、私たちがしている気功整体やチャクラ・ケアの核心部分であり、「自然治癒力」を引き出すカナメとなるものだと、思っています。

「整体」が、「自然治癒力」を引き出すカナメ

ところで、なぜ「整体」に導くことが、「自然治癒力」を引き出すカナメとなるのでしょうか。

それは、体を整えることが、人間が本来もっている機能を最高度に発揮することにつながるからだと思います。

もう少し、具体的に考えてみましょう。人の体には、大雑把にいって、200の骨と400の関節があり、それらを靭帯、腱、筋肉で結びあって、様々な動きを可能とし、生命活動を営んでいます。私たちが、周囲の状況に即応して対応できるのも、こうした体内構造があってのことですが、時に問題となるのが、必要に応じて対応した形が、部分的にそのまま居着き残存してしまうことです。

早い話、右利き、左利き、というように利き腕があるということ自体、体の動きの左右差を生じ、それが体のいろいろな部分での固着を生むことにつながりやすいのです。また、坐るときにいつも右側に両足を投げ出して坐るとか、左側に投げ出して坐るのも、骨盤に捻じれを生み、脊柱の湾曲を生む原因ともなりかねません。

必要性が去ればニュートラルに戻ればいいのですが、部分が居着くことで、全体の動きが制約を受けるようになります。甚だしくは、そのことにすら、気づかなくなってしまいます。

問題は、このように、体の部分、部分に固着があるとか、捻じれ、歪みがあると、それが回り回って、血液や体液の循環、代謝等に良からぬ影響を及ぼしかねないことです。昔の人が、姿勢の正しさをやかましく言ったのも、まことに当を得たことといえます。

先の無極椿において、姿勢を整え、体を天地と一直線で結び、つなげたうえで、内面を調整し、呼吸を整え、リラックスした状態に保つことを重視したのも、こうした文脈で考えると、よく理解できるような気がします。

とりわけ、脊柱をしなやかに歪みのない状態でまっすぐに保つ、ということは、人間にとって、とても重要な意味をもつものだと思います。それは、脊柱は、中枢神経が走り脳とつながる通路であり、脊椎からは末梢神経が出て、内臓、筋肉と結び合い、自律神経とも深い関係があるとされるからです。

こう見てくると、体に残存する固着、詰まり、たるみ、ゆるみ、しぼみ、不活性、あるいは過剰から機能不全を招くことのないように、いかに常日頃から、多方面に体を動かし、心の偏りすらも正して、バランスをとる、体を整える、身心の調和を図る、ということが大切か、拙い説明ながらも、ある程度おわかりいただけるのではないでしょうか。

整体に導くということ

結局、私たちがしている活動は、サークル活動にしても、施療活動にしても、共通するのは、人をしてこのような「整体」に導く、そのことを中心にお手伝いし、協同してやろうとしているんだと思います。

先に、施療の特長として、八項目を紹介させていただきました。

⇒ セルフ・ケアとセラピーと 

その特長のなかで挙げた、

⑥指先を要所に軽く触れるだけ、あるいは掌を軽く浮かせた状態で体内の気(生命エネルギー)の流れを円滑にする、乱れを正すといった手技等を基本に置いた、体にけっして無理な負担を強いない、人にやさしい自然な方法によって施療し、「整体」へと導くお手伝いをします
⑦自然治癒力を活かし、人にもともと備わる「健やかさ」と「良くなる力」を引き出すお手伝いをします

というのは、実は、こういうことを企図してのものであるわけです。

足裏のトラブルが全身のバランス調整で消えた……

整体に導くことの効果について、ある体験談をもとに紹介してみましょう。

こんなことが、ありました。11歳の男子を連れて、お母さんが施療に来られました。聞くと、足の裏に魚の目のようなものができて、歩くと刺さるように痛くて困っている、というのです。魚の目というと、ご存知のようにひどくなると切開手術が必要になるとも聞いていましたから、お受けしていいのかどうか迷ったのですが、これまでにも数回施療したことのある子でしたし、本人自身がみてほしいと言ってきかないということでしたので、とりあえずお話を伺うだけでもと、お受けした次第です。

結論からいうと、足の裏の問題ではあったのですが、体全体を整体に導く、つまり全身のバランスを調整することで、1回の施療だけで、トラブルをほぼ解消することができました。

この例からいえることは、たとえ局所の問題と思えても、体全体から広くアプローチして、体自体を整体に導くことが有効に働く、ということではないでしょうか。この事例については、ブログの「その体の不調はどこから?」でもいずれ取り上げてみたいと思っていますので、投稿の際は、そちらのほうもご覧いただければ、幸いです。

⇒ その体の不調はどこから? 一覧

根本原因をどう探り出すか

ところで、全身をみるのはいいとしても、限られた時間のなかで、スムーズにどう原因を見極め、探り出すかということは、受け手もそうでしょうが、施療する側にとって、大変に重要な課題といえます。それも、不調の箇所が特定せず、体のあちこちに現われているとなると、どこから手をつけたものか、頭を悩ませることにもなります。

たとえば、ある女性の場合は、背中が痛い、お尻が痛い、両目がかゆい、左足の小指が痛い、と言って、施療に来られました。この例も、いずれブログの「その体の不調はどこから?」で取り上げてみたいと思っていますが、いずれにしても、こうした不調を感じる箇所が多岐にわたるケースは結構あり、開業当初は、どこから手をつけたらいいものか、と無い頭を絞ったものですが、今は、いろいろな方法を駆使し、対応するようにしています。

FT(フィンガー・テスト)

その際、大きな力になっているのが、FT(フィンガー・テスト)という手法です。FTは、鍼灸師の入江正先生が、施療家自身の手指を使って、人体が示す微小反応を感知、検出する手法として考案されたものです。従来、同様の手法としてO‐リングテストというものが知られていたのですが、O‐リングテストが両手の手指を使っていたのに対し、片手でもできるように簡便化した、とても便利なものです。私は、このFTを応用した形で、たとえば、どの部位がどの部位に影響を与えているのかという影響、被影響部の見極めから、体のどの部位から施療を始めるか――上半身か下半身か 右側か左側か 中心部か外周部か――といったことまで、広く活用しています。こんなことを言うと、FTにしろO‐リングテストにしろ、途端に眉に唾をする人が多くて困るのですが、でも私自身はその有効性を実感して用いています。

先に、「術者の原始感覚」ということを申し上げました。指圧師の増永静人先生が、生命的に共感できる態度があれば、術者の原始感覚は皮膚を介して患者の異常状態を容易に共感できる、というものですが、まさに施療家と受け手は、つながり合い、響き合って、交流している存在だと、私は自分自身の施療体験を通して、信じ、活用しています。

⇒ 気功・整体学校の3年間で学んだこと

水晶を活用

また、チャクラの正常、異常の判定には、水晶も使っています。ダウジングといえば、ご存知のように、L字型に曲げた針金(ロッド)や振り子(ペンジュラム)などを使って、地下水脈や鉱脈を探す古くからある方法ですが、同様にして、チャクラのエネルギーの状態を見て、体の活性度を判断しています。というのも、体に7つあるチャクラは、人間の内分泌腺と対応しているといわれ、第1チャクラは副腎、第2は生殖腺、第3は膵臓、第4は胸腺、第5は甲状腺、第6は下垂体、第7は松果体というように、その場所の回転の異常を知ることで、体がいまどのような状態にあるかのヒントが得られるからです。そして、それらの異常に対しては、時によって、水晶やアメジスト、シトリン、ローズクオーツなどの天然石を用いて施療することもあります。

科学を信奉してやまない人々から見ると、一見不可思議極まりない行為のように思えるかもしれませんが、私の施療体験では、効果を実感しています。こうした事例も、いずれまた、ブログの「その体の不調はどこから?」で取り上げてみたいと思っています。人間であれ鉱物であれ、すべてはつながっていると考えると、十分にあり得る話であり、にわかに信じがたいからといって、頭から排斥する理由はないと思います。自然で人にやさしいものを使って効果があるなら、そのほうが、よほどいいと思うのですが、いかがでしょうか。

いまや科学技術が急速、加速度的に進展し、シンギュラリティといって、2045年には人工知能が、人間の知能を超えるという予測すらなされるようになっています。そうした科学技術万能の世の中は、果たして人間にとって幸福なものなのでしょうか。自然農法で名を馳せた福岡正信さんではないですが、人間は果たして自然の何を知っているのでしょうか。お釈迦様の手の上の孫悟空のようなことでなければいいのですが……。

まあ、一介の市井人にすぎない私たち凡人にはあんまり難しいことはわかりませんし、素朴な原始感覚のような物言いでしかないのですが、二人の気持ちとしては、大自然の懐に抱かれて、穏やかに、ゆっくりと、ゆったりと、天地とつながり、溶け込んで、生きたいものと念願しています。そう思って、やみません。本当の健康も、そうした土壌のなかで、育まれていくのではないでしょうか。実はそんな気持ちでブログも始めたのですが、こちらのほうも時々にでも目を通していただければ、ありがたいです。

⇒ 自然との調和をめざして Michi & Sum の気功的生活

話がちょっと脇道にそれてしまいました。以上、「整体」に導くことの大切さと、それに付随して私たちが用いている手法についても、話の向くまま、気の向くまま、いささか長々と述べてきました。では、この「整体」が「自然治癒力」とどう結びついていくか、という残りの肝心の点は、次項で続けて私見をお話ししてみたいと思います。もう少し、お付き合いいただければ幸いです。

⇒ 「整体」から「調和体」へ