気功・整体学校の3年間で学んだこと

気功・整体学校の3年間で学んだこと

気功・整体学校の3年間で学んだこと

学科と実技と、勉強に明け暮れる

東京療術学院には、アフターファイブと土日の週末を利用して、3年ほど通い、解剖学、生理学、病理学、臨床心理等の基礎知識を学習。さらには、東洋医学(漢方学、経絡・経穴学、診察法)と整体実技など、幅広い科目を受講しました。

統合医学の帯津良一先生、気功・統合医学の外山美恵子先生、筋・筋膜療法の内田威先生、整体実技の故二田原義光先生、操体法の間宮良二先生など、諸先生の授業に数多く出席し、多くのことを学ばさせていただきました。当時在籍されていた坂本収司先生からは、徒手的検査法と解剖学の講義での、その、人一倍の熱血指導ぶり(他の先生も勿論そうなのですが)と療術への向き合い方に強い印象を受けました。先の諸先生同様、記憶に残るお一人でした。

また、この間、峨眉丹道医薬養生学派伝人で中国気功界の第一人者の一人とされる張明亮先生から推拿(峨眉天罡指穴法。推拿は、中国の伝統的手技療法)の特別講習や、合宿などで峨眉功法の実際と気功について直接教えを受けることができたのも、まさに僥倖といえることでした。

さらに加えて言えば、この時期に、三木成夫、西原克成、野口晴哉、野口三千三、増永静人、橋本敬三、桜沢如一、久司道夫、福岡正信、安保徹、バーバラ・アン・ブレナン、ドロレス・クリーガー、ロバート・フルフォード……と、いささかとりとめもなく関心の赴くままに、内外の諸先達のいろいろな本に目を通すことができ、大いに啓発を受けたことも幸いなことでした。

こうして実に多くのことを学んできたのですが、以下に、要点をいくつかに絞って、まとめてみたいと思います。

何より大切なものは、“心”、“気持ち”

学んできたなかで、私自身、最も大切なものとして胸に刻んだのは、“心”“気持ち”の在りようということです。

医学知識や整体手技の技量はもちろん大切で、それなくして、施療は成り立ちません。しかし、それよりも何よりも大切なものは、“心”“気持ち”ではないか、と思い至るようになりました。

身心のどこかに不調や痛み、悩みを抱えた人を目の前にして、その不調、痛み、悩みを“我が事”として受け入れ、敬い、共感する。とともに、自然の治癒力の導きにより、本来の生命(いのち)のありように立ち帰るべく、補助の一端を担わさせていただく。この気持ちがあって初めて、施療は現実のものとして活きてくるのではないかと学ばせていただきました。

「抜苦与楽」という言葉があります。
文字通り、苦を取り除き、楽を与えるという意味ですが、仏教では「与楽」を慈悲の「慈」とし、「抜苦」を「悲」とするとのことです。この悲の原語がサンスクリット語の「カルナ」で、カルナの元々の意味は「呻(うめ)き」なのだそうです。

人々の“呻き”を我が呻きとし、そこからともに救われることを我が思いとする。これを多分、「悲」というのでしょう。たとえ自分の技量が「与楽」には遠く及ばずといえども、「悲」であることは、その気になればこの私にも、ほんの少しはできるかもしれません。

指圧師として名をなした増永静人氏は、その著『経絡と指圧』(医道の日本社刊)のなかで「術者の原始感覚は皮膚を介して患者の異常状態を容易に共感できる」とし、そのためには「経験も知識も全く要らないのであって、ただ生命的に共感できる態度だけがあればよい」と仰っています。

まさにこの“生命的に共感できる態度”こそが、施療の根幹をなす最も大切なものではないかと、それも、入学時におけるような、観念(直覚)としてそれを捉えたのではなく、実地に気功整体実技を学ぶなかで、“実感”として感得できたことが、自分にとっては大変に重要で有難いことでした。

一例を挙げてみます。
軽擦は、施療の出発点です。文字通り、体を軽くさするという行為ですが、心のこもった軽擦と、心のこもらない軽擦は、実際に整体実習の場で受けてみて、すぐに察知できました。

心のこもった軽擦には、人に対する気遣いの念があります。人を人として敬い、なんとか楽になってもらえれば……という優しさがあります。人間はそれを敏感にキャッチする極めて鋭いセンサーをもっているのです。

また、これも実技の際にベテランの人の手技を受けていてしばしば感じたことなのですが、手が不調な箇所にスッといき、そこを念入りに施療するということがあります。なぜ、そこに手を止めたかを訊くと、「何となく」という答えがよく返ってきます。つまり、左脳的な“理屈”ではなく、右脳的な“感性”が優っている印象なのです。
まさに、これこそが増永静人氏の言う「術者の原始感覚」ではないでしょうか。

ひとつながりの体

「シャツのボタンが取れているのにも理由がある」とか言ったのは、たしか詩人の生田春月という人ではなかったか?と、おぼろげに記憶しますが、どんなことにも確かに理由はあるものです。

たとえば、立ったとき、アナタの体はどうなっているでしょうか?

体の重心が右足にかかっている、左足にかかっている。頭が右や左に傾いている、あるいは回旋している。左右の目のアンバランス、肩の上がり下がり、左右の腕の長さや肘の位置の違い、胸部の厚みの左右差、乳房の位置と大きさの左右差、腸骨(腰に手を当てたときに触れられる骨盤の骨)の左右の高低差、脊柱の前後左右への彎曲や歪み、膝の向き……などなど、これらは、明らかに体の”何か”を物語っています。

たまたまそうなっているんだと、安易に見過ごすのではなく、ナゼそうなっているのか、を考え、突き止めるべきです。

実際、顔が厚ぼったいとか、口がゆがんでいるのは、生まれつきだからしょうがないと思っている人は多いのですが、そんなことはありません。整体が終わってみると、小顔になったり、口のゆがみが取れている、ということは結構、あることなのです。

つまり、物事には原因があって、結果がある、ということです。そして、その原因は極めて多岐に及んでいると考えるべきです。人間の体はひとつながりなのですから、どこかのほんのわずかな体の歪みとか、体調の変化が、巡り巡って、全身に影響を及ぼすということは、可能性として、多かれ少なかれあるのです。

腰の痛み・悩みを例にとってみましょう。
腰の痛み・悩みの原因が、腰そのものにある、ということは思いのほか多くはありません。調べてみると、実は原因が、頭や脊柱の傾きの問題であったり、片方の歯でいつも噛んでいるという片噛みの問題であったり、アルコールや冷たいものの摂り過ぎによる内臓疾患の問題であったり、下肢の衰えの問題であったりすることは、よくあることです。

私が学校で実地に体験して、印象に残っているものに、腰の痛い原因が実は〝目”にあった、というのがありました。また、卒業後の例として、腰が重たくて前屈、後屈できないという悩みが、足の裏など3か所の施療で解消できたこともあります。

エッ!?、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、事の次第を、いずれブログの「その体の不調はどこから?」のなかでも、紹介するつもりにしていますので、投稿の際は、よろしければご覧ください。

⇒  その体の不調はどこから? 一覧

不調の原因を〝人間的方法”を駆使して探る

ところで、多くある要因のなかから根本原因、あるいは主要となる原因を探り当てるという作業は、けっして容易なことではありません。

とりわけ、西洋医学的な機械や器具による検査手段をもたない私たち民間施療家にとって、頼りになるのは、東洋医学でいうところの四診、つまりは、見る、聞く(嗅ぐ)、問う、触れる、といった、いかにも人間的な方法でしかなく、それらを駆使し、考察を重ねて、探っていくことが中心となります。

たとえば、腰の痛みが問題だとして、自覚症状はどうなのか。ご本人は、どう仰っているのか。ぎっくり腰をやって痛くなった、とか、前かがみや反り身になると痛い、身体を横に傾けたりねじると痛い、ズボンや靴下がはきにくい、顔が洗えない、寝返りを打つと痛くなる……などと訴える人もいます。

また、じっとしていても腰が重く痛い、冷えると痛みが出てくる、動いていると痛みが少しマシになる……というような訴えもあります。

このように訴えは様々に渡りますが、そうした内容から、その腰の痛みが何に起因するのか、ある程度の目安をつけることは可能です。たとえば最初の、体の位置や姿勢、動作を変えると、痛みが増減するという場合は、腰背部にある筋・筋膜、靭帯、関節、腰椎等の変調に起因するのではないかと、それなりに目算が立ちます。

また、その次のケースでは、気血水(気は、筋膜路を流れる生体エネルギーであり、水はリンパ液等の体液)の循環不良に起因するのではないかと、想像を働かせることができます。

このように、同じ腰が痛いといっても、その自覚症状や訴えはいろいろですから、よくお話を聞いて、その不調がどこから来ているかを推し量ることが、大切となるでしょう。

とともに、お話はお話としてしっかり耳を傾けるとしても、それに全面的に寄りかかるのではなく、自分なりに、注意深く観察眼を働かせることも大切になります。

たとえば、施療室に入ってくるときの姿勢はどうだったでしょうか。もし、腰を手で支え、胸を反らした姿勢でソロリソロリと入ってきた、というのであれば、それはその人がたとえ口には出さなくとも、重要な情報を施療家に伝えてくれていることになります。

「胸を反らす」ということは、前にかがむと痛いわけで、腰背部の筋肉のこわばりか、腹部の筋肉のゆるみ過ぎが疑われます。「腰を手で支え」というのは、腰部に問題があることを示していますし、「ソロリと」は、一定の姿勢を保持する最長筋群に問題があることを示唆しているのかもしれません。

解釈はほんの一例にしかすぎませんが、こんなふうに、自らの観察も、伺ったお話に加味したうえで、今度は、さらにそうした推測が正しいのかどうか、実地に検証を進めていく必要があります。

では、その検証をどう進めるか。私が学んだ筋・筋膜療法では、筋肉からアプローチする方法について、徹底して指導を受けました。

筋肉から連鎖を辿る

なぜ、筋肉なのでしょうか。

筋肉(骨格筋)は、筋膜により幾重にも包みこまれ、体重の約40%を占める身体の主要な組織です。骨や関節に作用して、動きや姿勢をつくるほか、血液やリンパ液などの体液、末梢神経の通路ともなり、また、体熱の産生と体温の保持にも大きく関わっています。

人が一日に発する体熱(基礎代謝)の約40%は骨格筋の活動によってもたらされ、しかも体温が1度下がると免疫力は30%以上も下がるとされますから、その働きの大切さがよくわかります。

このように筋肉(筋・筋膜)は、身体の動作・安定や生理機能の恒常・維持に重要な役割を担っているのですが、様々な原因からすぐにその働きが鈍ってしまいがちです。

たとえば、激しい運動や無理な姿勢を続け特定の筋肉の緊張状態が持続すれば、その筋肉はこわばってしまい、やがて必要な筋力を発揮することができなくなります。

逆に、運動不足や病気で寝込んでしまい、その状態が続くと筋肉は弛み過ぎて、そのうち必要な筋力をやはり発揮できなくなります。

こうしてある筋肉が変調を起こすと、それはその筋肉が付着する骨に影響を与え、その骨に付着するまた別の筋肉にも影響します。

結局、筋肉―骨―筋肉―骨―筋肉……と次々に伝播して全身に及ぶことになり、骨格をゆがめ、筋肉群にアンバランスさを生じさせる原因ともなっていきます。

そうなれば、それに関連する内臓にもなんらかの影響を及ぼさずにはいません。巡り巡って、内臓の不調が筋肉に悪い影響を与えるという悪循環に陥ることにもなります。

筋肉の活力の低下は細胞の不活性として、体液の流通・循環異常にもつながり、健康への障害となっていきます。

しかも、このような筋肉の変調は日常的に起こることであり、それが人の健康をも大きく左右するわけですから、筋肉(筋・筋膜)に着目して適切な措置を講じることは、極めて重要といえます。

以上のように考えてくると、筋肉を重要な一つの手がかりとして捉えることの妥当性が見えてきます。筋・筋膜の変調を辿ることで、体の不調がどういう連鎖を経て現れているのか、それらを調べることも、ある程度可能になるわけです。

それを見るやり方としては、ここでは詳述しませんが、筋肉のコワバリであったり、ユルミであったり、滑り具合であったり、筋肉の長さや筋力であったり、筋肉が付着する骨の動揺であったり、どの箇所がどの箇所に影響を与えているのか、逆に影響を被っているのかといったことであったり……そういうことを丹念に見て、不調の主要な原因となっている大元の部分に迫っていくことになります。

先に、腰の痛みを例に出しましたが、一番目のように骨や関節など運動器系が疑われるものであれば、関係する筋肉等をよく見ていく必要があるでしょう。

二番目のように循環不良が疑われるものであれば、血流を阻害しやすい箇所をていねいに見る必要があるでしょう。たとえば鎖骨と第一肋骨の間はほとんどの静脈が戻る関所であり、リンパ液が静脈に入っていく箇所でもあります。ここの間隔が詰まると、気血水の循環を悪くするばかりか、内臓にも影響して多くの病気を招く一因ともなりかねません。また、このほかにも、鼠径部、腋窩なども循環と関係しやすいところですから、こうした箇所とつながる筋肉等の変調をしっかり追っていく必要があるでしょう。

なお、筋・筋膜療法の、在学時の体験事例として、ひとまず3本ほどブログのほうに投稿しておこうと思います。これをご覧いただければ、いささか筋肉名など専門的に渡る部分もありますが、この療法が、体の変調の連鎖をどのように辿って、体の不調の元となる主要な原因に肉薄しようとしているのか、おおよその雰囲気のようなものは感じ取っていただけるのではないでしょうか。

⇒  その体の不調はどこから? 一覧

いずれにしても、こうして丹念に見ていった結果として、主要な原因とおぼしき箇所に辿りつき、ある程度特定できたなら、今度はそれを施療していくことになります。

施療は、指一本の微刺激でも足りる!

筋・筋膜療法を学んで本当によかった、と思うのは、施療にあたっては指一本の微刺激でも足りるんだ! ということを実地に体験できたことです。

では、なぜ、そんな微刺激でいいのでしょうか。

学習した要点を簡単にご紹介しておくと、筋肉を幾重にも包む筋膜は、丈夫なコラーゲン線維でできており、神経、血管、リンパ等が走行し、筋肉の細胞に栄養を届け、老廃物を回収するルートとなるほか、生体エネルギー(気)が流れるなど、いわゆる気血水の通路として、重要な役割を負っています。

筋肉に変調があるというのは、筋肉の局所にこわばりとかゆるみ過ぎがあり、筋膜・筋膜路での気血水の流れが円滑でない状態をいいます。

そこで、この局所(主要原因部分)に、皮膚を介して熱などの微刺激を加えれば、コラーゲン線維である筋膜がそれに敏感に反応し、気血水が本来の流れを取り戻して、その部分が元の働きを回復します。

そのことが結局、その筋肉自体の働きを正常化し、ひいては全身の筋肉群のバランスを回復させることにつながるのです。

微刺激の手段としては、たいていは、ゆるみ過ぎが感知される部分の皮膚に指をそっと乗せ、静止させたままにします。このときの圧の強さはカステラが少しへこむ程度です。そうすると、やがて指先に拍動が感じられるようになり、気血水の流れが活性化しているのを触知できます。

こうして数分か十数分かすると、拍動もやがて収まって、筋肉全体が正常化してきたのを感じ取れます。そうなれば、改めて筋肉の働きの復調を確認し、問題となる症状が改善されれば、施療は成功したことになります。

これぐらいの微刺激でいいということは、人にやさしい大変にソフトな手技といえますから、安心してお受けいただけることにもなるでしょう。

ちなみに、いま、ゆるみ過ぎが感知される部分の皮膚に指をそっと乗せる、といいました。この点について補足しますと、ふつう、筋肉がコワバっていると、すぐにそれをほぐすなりしたくなるものです。しかし、これはいささか考え物です。というのも、コワバっているというのは、どこかがユルんでいる結果としてコワバっている可能性があるともいえるのです。

たとえて言えば、一家の亭主がグータラで遊んでばかりいると、奥さんが頑張らざるを得ません。それを奥さんが頑張りすぎだといって、むやみにほぐしてしまうと、一家そのものが駄目になってしまう恐れがあります。

したがって、施療のあり方としては、コワバリがあれば、それはなぜコワバッているかを考え、その元となっているユルミをしっかりさせるほうが、理に適っているといえるでしょう。微刺激をユルミの箇所に多く加えるというのも、こういう理由からです。

いずれにしても、どこそこが痛いからといって、短絡的にその箇所の施療をすればいい、というものではありません。そのようなある種短絡的、画一的、マニュアル的な施術では、相手へのきめ細かな考察や検証を欠いている分、その効果にはどうしても当たりはずれがでやすい、のではないでしょうか。

⇒ 気功・整体学校の3年間で学んだこと(続)