気功・整体学校の3年間で学んだこと(続)
前項では、人の体はひとつながりであり、体の不調も、それが現われている局所に限定せず、全体的な視点から広く見ていくことの大切さについて、お話してきました。
ところで、このひとつながり、というのは、単に体だけの話ではなさそうです。
心と体もつながっている
再び、腰の痛みを例にとると、心が、その大きな原因となっているケースもあります。
人は悲しいとき、思い悩むとき、恐れから身を守ろうとするときなど、思わず、両手で我が胸を被うようなしぐさをしたりします。まるで自分の存在を自ら抱きしめ、守るかのように……。そう、これは、自身の心のありようが、自身の体のしぐさを導いているとも見られます。
でも、こうした傾向がいつも続き、体に定着してくると、それは思いがけぬ体の不調へとつながっていきます。腰の痛みの原因になることも、十分に考えられるのです。前項で述べた筋肉の視点から見るやり方とは別に、ここでは東洋医学的な視点から少し見てみましょう。東洋医学なんて知らないよ、という人は、そんなものなのかと思ってお読みください。
まず、腰というのは、場所的には、東洋医学の腎・膀胱経と関係のある部位といえます。悲しいという心、感情は、東洋医学的には肺経に関係します。肺経は腎経のお母さんに当たる経絡(気=生命エネルギーが流れるルート)で、ここがおかしくなると、子の腎によくない影響を与えます(なお、膀胱経は、腎経と表裏の関係にあるツナガリの深い経絡です)。
また、思い悩むというのは、脾経絡と関係します。脾は腎経と、相剋といって、相対立する関係にあります。
恐れおののくというのは、腎経そのものと関係します。
つまり、先の胸を被うというしぐさが、どれも腎・膀胱経、すなわち腰と何らかの関係をもってくるのです。結果として、それぞれの気(生命エネルギー)の流れが阻害されることで、腰痛を引き起こすメカニズムともなるわけです。
以上は、一例に過ぎず、この解釈がすべて、というわけではありません。怒りだって、腰痛と関係します。
怒りは東洋医学では肝経に属します。肝経は腎経の子供です。子供の問題がお母さんの腎経にはねかえってくることは十分に考えられることなのです。
ここでは東洋医学的な見地から説明を加えましたが、東洋医学に限らず、心のありようがどれほど体に関係するか、について詳しく知りたい人は、是非『心はなぜ腰痛を選ぶのか』『サーノ博士のヒーリング・バックペイン』(ともにジョン・E・サーノ著、春秋社刊)、『腰痛放浪記 椅子がこわい』(夏樹静子著、新潮文庫)をお読みください。きっとその濃密な関係に驚かれると思います。
心を、体から癒す
ところで、心が体の不調の原因だ、ということになると、心をなんとかしなければ体の問題はどうにもならないのか、というふうにも捉えられがちです。心が原因だと知って、あっさり体の問題をクリヤーできる人もいれば、なかなか心の収まりがつかず、病状を長引かせる人もあると思います。では、そんなときはどうすればいいのでしょうか……。
心と体はつながっているのですから、体のほうからアプローチすることで、心のありように迫ることもできるはずです。
上に挙げた例でいえば、胸を被う姿勢がいろいろな症状を引き起こしていると考えられるのですから、心の問題の存在を理解したうえで、そうした姿勢を改めるように筋肉ベースから施術していけば、心にも良い影響が及ぶことが予想されます。また、東洋医学的な観点から、経絡の乱れを調える、という方法も考えられるでしょう。
この体からアプローチするという点に関し、整体学校卒業後の私の体験をご紹介すると、不眠症で眠られなくて困る、といって施療に来られた人がいました。お話を伺うと、心に悩み事があり、それが影響を及ぼしているようです。施療は、心療的アプローチと違い、体の方面から偏りを正し、全体的なバランスを整えていくことを主眼に進めていったのですが、いつしかご本人がグウグウといびきをかいて眠り始めたのです……。「えっ、私、もしかして眠ってましたか」 本人もあとで意外な成り行きに驚かれていました。
このように、心と体を癒すという作業は、いろいろな関係性を視野に入れてアプローチすることが、とても大切なことだと思います。どんなことでもやりようはある、と信じて、けっして絶望しないことです!
すべてはつながっている
前項で、ベテランの人の手技を受けていると、手が不調な箇所にスッといき、そこを念入りに施療するということがあることをお伝えしました。この場合のつながりとは、施療する人とされる人とのつながりということになるでしょう。
よく、人を嫌えば嫌われる、好きになれば、好意を寄せてもらえる、といわれます。確かに、施療する人とされる人の間に、互いの信頼関係があればあるほど、その施療は効果を発揮しそうです。信頼する相手から見てもらえば、それだけで人の心は和むでしょう。嫌いな相手となると、それだけで体は要らぬ緊張を覚えてしまうでしょう。となると、施療家にとって大切な態度とは、目の前の施療に来られた人を、やはり、“好きになる”ということになるのでしょう……。
しかし、気功やホリスティックの授業を受けますと、その“境地”も未だ十分とはいえないようです。
ホリスティックとは、ご存じかとも思いますが、全体、関連、つながり、バランスといった意味を包含する言葉で、人は個として単に存在しているのではなく、とりまく環境すべてとつながっているとする考えです。
似た言葉に、気功では「天人合一」という重要なキーワードがあります。峨眉気功の張明亮先生からもしばしばお聞きした言葉です。天とは大自然、大宇宙であり、人はその大自然、大宇宙と一体となった存在であり、その一体性を回復した境地をさして天人合一と呼ぶ、などと一般的に解説されています。
相手を癒す、自己を癒す、自然を癒す
共通するのは、要するに、すべては一体であり、つながっているという考えです。これをさらに敷衍して、先の施療する人と施療される人との関係にあてはめていえば、施療家にとって、相手を癒すということは、結局は自己を癒すことにつながる、という関係性が見えてくるようにも思えます。憶測をたくましくしてもっと言えば、地上での局所の“癒し”が宇宙全体の癒しにさえもつながっているのだということすらも、いえるのかもしれません。
まあ、そういうどこか雲をつかむような話はさておいて、張明亮先生からは、気功の目的は「真人になる」ことだと伺いました。また、いま私たちが地元の気功サークル「ニコニコ太一気功」で仲間の皆さんとしている「香功」は、正式名称を「中国芳香型智悟気功」といい、その目指すところは〝功法を通じて気功をする人が体験のなかで悟る″ことにあるといわれています。「真人」といい「悟り」といい、どうやら気功の根幹には、人がいまあるレベルよりさらに超えて上に行く(流行りの言葉でいえば、アセンション=次元上昇ということになるのでしょうか?)ということともつながりがあるのかもしれません。いずれにしても、そういう高い境地に行くには、もっともっと日々、気功の修練を怠らず、続けていく以外になさそうです。
いささか、話がこみいってきました。私自身まだまだ学習途上の身であり、実感をともなって語るべきものは持ち合わせていませんので、これより先に踏み込むことは差し控えたいと思います。
ただ、施療の現場で感じた、いわば「無(原初)の力」とでも呼ぶべきものについては、後の項の「自然治癒力とは何か」の中で少し触れてみたいと思います。いずれにしても、体だけにとどまらず、全てはひとつながりであり、他を癒すことは自己を癒すことに他ならないという原点だけは、施術者としての“原始感覚”を大切にする意味からも、肚によく据えて施療に当たりたいものと、学校での3年間も含め、様々な学びのなかで思い至るようになりました。
より人間的な施療法を求めて
話をもう少し現実的なところに引き戻しましょう。
これも前項で述べたように、私たち民間施療家にとって、頼りになるのは、人間の五官を使ってする見立てです。機械や器具によるデジタル的な客観性こそ持ち合わせませんが、施療に来られた方と密に心を通わせ、コミュニケートするなかで、その人に応じた施療ができることは、ある意味、大変に優れた療法といえるかもしれません。
よくいわれるように、現代医療が往々にして専門分野に特化し、各分野での検査に多くの時間を費やし、病名が特定できれば肝心の診断はそこそこに終わって、あとは病名診断にもとづく治療に頼るというような、どこか画一的で、人を選ばない治療法であるかの如く見えるのに比べ、それは明らかに人間がもつ原始的とも素朴ともいえる感性に重きを置いた、より人間的な治療法ともいえるものだと思います。
しかも、先に見たように、一つの症状の背景には、その人特有のさまざまな要因が隠れています。人の体は部分、部分を寄せ集めて単に組み立てたようなものではけっしてありません。全体が緊密につながりあって、ひとつの統一体として機能しています。そして、その働きには、心や取り巻く環境も含め、すべてがかかわってきます。
したがって、単に症状の出てきた部分だけを見て、その問題箇所を症状が消えるように抑え込む、というようなやり方では、木を見て森を見ず、で、必ずしも的を射たやり方とはいえないでしょう。たとえ一時、対症療法が功を奏して症状が緩和したとしても、根本のところで解決がなされなければ、症状はまた形を変えてぶり返し現れてくる恐れがあります。
確かに、数多くある要因のなかから元となる主要な原因を探り当てるという作業は、前項でお話ししたように、けっして容易なことではありませんし、そのぶん時間もかかります。しかしながら、人と人が、ひとつの解決すべき問題を仲立ちに、互いに人間として交流するなかで、人にやさしいやり方で乱れた自然の調和を回復していく(人間も自然の一部です!)癒しの作業は、大変に優れた施療法として十分に価値あるものと、この貴重な三年間を経て、確信するようになりました。
以上、前項と合わせ2回に分けて、いささか長文になりましたが、学んできたことを、まとめてみました。学習のなかで、2004年に病気と交通事故を体験し、その治療の際に感じた違和感、??? という疑問がどこから生まれたかの理由も、それなりに掴めたような気がします。それは、全体性を見ず専門分化した治療法であったり、相手の気持ちを十分に忖度しきれていない対応であったり、画一化、マニュアル化された施療であったり、ということではなかったか思います。
こうして、3年間があっという間に経過し、卒業試験と審査(学科試験、実技試験、卒業論文提出など)を無事に済ませ、2008年4月、小さな看板を施療所のフェンスに掲げ、for health 和楽院をスタートさせました。学んできたことを、いよいよ実践に移す時がやってきたのです。とともに、それはまた、新しい学習の始まりでもありました。